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鞭を欲してしまうM性もあれば、そうでないM性もあります。

鞭を望む奴隷には、
痛み自体を悦びに昇華させるべく、躊躇なく鞭が与えられます。
罰としての意味が薄れるので、罰は他に用意されることがあります。

逆に鞭を望まぬ奴隷には、
ほんとうの罰として鞭は使われます。

与えなくてはならないから与えるのです。

ですが、私の鞭には躊躇が含まれています。

そんな奴隷の心情を記した一文を紹介します。




鞭は怖いです…  凄く…
痛くて 逃げ出したくなる・…
罰を戴く事は悲しい事です。 私が粗相をしたのですから。

でも心は凄く嬉しいと思っています。 私の為にしてくださっている躾です。

ご主人様は、鞭を入れてくださる事を喜んで入れてくださってるとは思っていないです。 
たぶん・・・  鞭を入れる事を時には悲しいと思われているのでは…? そう感じる事がありました。 私がダメな子だから・・・  けど 諦めずに私を躾てくださる。そのお気持ちが嬉しいのです…

お受けしたい。 きちんと罰をお受けしたい・・・  そう思っています

肉体的な喜びはまだ 私は余り知らないかもしれません。
けれど 精神的な喜びは良く知っています。 
そうでなければ奴隷としてお仕えしようなんて思いません。

痛いことだけをされて喜ぶのなら 相手はどなたでも良いと思うのです。 
私は 私を愛してくださっているかただから 
私が愛しているかただから 痛くて辛いお仕置きも嬉しいと思えるのです






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自分はMなんだろうか。

・・もしかしたらMかもしれない、と感じる女性は多いと思います。

気がつくと、はしたない行為を想像している自分。
主人に支配され、厳しく躾けられていることを想像してしまう。
全裸で首輪をつけられ四つん這いになっている自分。

でも、こういう妄想をしたからといって
自分が本当にMかどうなのか分からない・・。

SM的な行為を想像をするのと、現実に実行するのとでは大きく違いますね。
妄想は妄想かもしれない。


また、仮に誰かと主従関係を結んだとします。

自分のM性に主人は満足するのだろうか。
本当は自分はMではないのだとしたら・・

などと、不安に感じたりもすることもあるかもしれません。

自分がMであることが、
どのくらいの意味を持っているのか、

それは、悩みの種になることもありますし、
もしかすると人生を変えてしまうことすらあります。




私にとって、
相手がどのくらいのM性を持ち合わせているかは、もちろん重要です。

それを知るには、
心をさらけ出して会話を交わす事が肝要となります。

正確に自分の気持ちを表す必要があるのです。


その際、私が重視するのは潜在的なM性があるかどうかです

たとえば
現在、SM的な妄想をしたことがない女性でも
潜在的に素晴らしいM性をお持ちの場合があります。

逆にSM的妄想は多くとも、真にMではないケースがあるのです。



それを見極めるにはどうすればいいのでしょう。

一つのポイントがあります。
仮に精神的な部分と、性的な部分に
Mを切り分けてみましょう。

それぞれの具体的内容は言及しませんが、
結論を言うと、精神的な部分の割合が多い場合、真のMである可能性が高く感じられます。

行為とは精神的な衝動から起こるものです。

そのような精神的なM性が垣間見える場合、
SMをしなくても、痛いことをしなくても、ご主人様と呼ばなくても、
M性を発見し、強めることが可能です。

それはとても興味深い事であり、
なにもSMプレイをしたからといって、
女性が本当に奴隷になっていない場合があることの
真逆の真理です。







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愛されたいっていう感情は、誰でも思う普通の気持ち。

主人から愛されれば、
もちろん、安心できるし幸せを感じることができる。

しかし、その「愛されること」を目的に主従をしてしまうと、困ったことが起きやすい。


結論から言ってしまえば、

愛されたいから奴隷になる、命令を受け入れるという構図は、間違っています。

「愛されたい」度合いによっては・・結果として、本人が苦しみ悩む傾向があります。

これはSMに限らず普通の恋愛でも同じことが言えます。



例えば

主に対し不満がたまりやすい。

いらいらする。

過剰に不安になる。

などの症状があれば、愛情が目的化されているかもしれません。



これを難しく言えば愛情の受動と能動の違いと捉えることが出来ます。

(参考記事)

私が奴隷を調教するとき、
奴隷から「愛されたい」と思って調教していたらお笑いだと思います。

奴隷を調教するのは「愛す」からなのです。

これは能動的な感情と行為です。


もっと一般的な例えで言えば、

母親は子供に愛されたいから、子供になにかしてあげるわけじゃない。

単に「愛する」だけです。


それに愛される事を目的に、何かする女性は、
不幸になる可能性が高い。

しかもそれは一生続くような性質を持つように感じます。

いつか気づかなければならないことです。気づいて欲しい。


でもそれができないM女性も多いのも事実。

だからこそ調教があるのです。


最後に。

「愛されたい」と思うことが間違っているのではありません。誰でも思います。

ですが、その受動的感情に心を支配されてはいけません。





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もっと主人を愉しませたい、と感じているM女性は多いのではないでしょうか。

または満足してもらいたい。


悩んでいる方もいるかもしれませんね。


その解決策として「~ができるようになればいい」というのが頭に浮かびますか?

たとえば、もっと痛みに耐えられるようになれれば、満足してもらえるかも…、等です。



確かにできることが多い奴隷は、それだけ愉しみも増えます。

私もできることが増えるような命令を出し調教をします。

しかし、このブログで何度も記しているように、

それは主従の一側面でしかなく、大切なことではありません。


私が思うに、
もっと主人を愉しませることが出来る、もっと大切なことがあります。



それはこころの感情表現です。


Sとは、奴隷の反応を見て愉しむ生き物です。

奴隷が身悶え、悦びの表情を顕わにし、

苦痛に必死で耐え、または甘い声をあげ、

はしたない言葉を口にするとき……

Sは微笑むのです。




調教中の反応は、無意識に出てしまうものだから、どうしようもない、と思われるかもしれませんが、

そんなことはありません。

普段は落ち着いた冷静な女性であろうとも、主従においては心を裸にされるのです。

今まで出したことのない自分を放出できるようになります。


じわじわと

奴隷の感情表現を開花させていくことも、私の奴隷を愛でる方法のひとつなのです。







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ずいぶんとブログを更新できませんでした。

コメント・メール頂いた方、お返事できず申し訳ありませんでした。

今年もゆっくりペースですが更新していければと思っていますので、どうぞよろしくお願いします。



さて、

最近よく考えることがあります。

それは心の声について・。



心の声とは、本当の気持ちという意味です。

自分の心の声に正直になることは、案外難しいことです。



心の声が分かっていても、
現実的な問題があり、その通りに行かない場合もあります。

逆に自分が何を求めていて何がしたいのかわからない場合もあります。



これは調教に限らず、人間誰しも経験することかもしれませんね。

プライドが邪魔して素直になれない、など、シンプルな例でしょう。

過去の経験から強制的に思いこんでいる自分の考え方。

それに邪魔をされ、本心に気がつかない場合もあります。

私自身も、本当の気持ちを分かっていて違う行動をしてしまうことがあります。




自分の気持ちに正直でない状態とは無理がある状態です。

自分に嘘をついていると大変苦しい毎日を送っているかもしれません。

それは日常生活という現実に紛れて無視されている場合もあります。

気がつかないふりをしているかもしれません。

問題に薄々気がつきながらも自分ではどうすることができず、
知らず知らずのうちに、心が傷ついている事もあります。



SMでは奴隷の本当の心内を理解することが、かなり重要になります。

でなければ支配などできません。


自分の本当の気持ちを認識し、なおかつそれを表現できるM女性であれば問題はないのですが、

心内を表現することが不得手なことはよくあることです。

真反対の事を私に言ってみたり、

羞恥心や主人に嫌われたら困るという理由からそれを口にすることを躊躇っていることもあります。


もし貴女が主人に心を見透かされていると感じるとき、

それは恥ずかしい欲求を見通されているだけではないことを覚えておいて下さい。

貴女がMであるのは、それなりの理由があるのです。

それは心の声に関係することが多いように思えます。



心の声を大切にできるような調教をしていきたいものです。






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